The Battle of Paekchon/Kum River (Aug. 27-28 663) - Hakusukinoe

Publié le par Tiger LEE

●白村江の戦い はくすきのえのたたかい

アジア 日本 AD663 

 663年(天智2),日本が白村江(はくそんこうとも読む。白江ともいう)で唐に敗れた海戦。唐は建国以来,隋の滅亡の原因ともなった高句麗征討を懸案とし,645年(大化1)以来たびたび出兵したが,百済が高句麗に協力したこともあり,いずれも失敗に終わった。そのため660年(斉明6)3月,唐の高宗は新羅と結んで出兵し,義慈王以下を捕虜として百済を滅ぼした。しかし,百済の遺臣の鬼室福信らは国家再興の兵をあげ,日本の救援と義慈王の子余豊璋の送還を求めた。大化改新後の混乱のあとに中央集権政策が進行し,国力が充実していた日本は,新羅の強大化を好まず,ただちに百済救援を決め,翌661年(斉明7)5月には,斉明天皇自ら本営を北九州の朝倉宮に移した。天皇は同年7月に急死したが,皇太子の中大兄皇子が指揮をとり,翌662年(天智1)には阿曇比羅夫らに豊璋を送らせ,さらに663年(天智2)3月にいたり,上毛野稚子,阿部比羅夫らを将とする,2万7,000の兵を派遣した。しかし,その間に豊璋福信を殺すという内紛があり,百済軍は急速に弱体化し,増強された唐・新羅連合軍に追いつめられた。こうした形勢を打開するため,同年8月,日本の水軍は錦江下流の白村江に突入を試みたが,2日間の戦で唐の水軍に敗れた。これにより水陸の拠点を失った百済復興軍は潰滅し,豊璋は高句麗に逃れた。その5年後には高句麗も滅ぼされ,日本は朝鮮半島における友好国のすべてを失ったが,多勢の百済・高句麗からの亡命者を擁し,天武天皇代以後,中国的律令国家建設にむけての国内改革に専心することとなった。

 

Sources :

http://www.tabiken.com/history/doc/O/O255L100.HTM

http://www.asukanet.gr.jp/tobira/hakusonkou/hakusonkou.htm

http://www1.linkclub.or.jp/~yukos/dazaifu/d08haku.htm

http://www.hkr.ne.jp/~igyou/nen/japan/kodai/hakuson.htm

http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-43.html

http://page.freett.com/rui/jikou.html

 

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